こんな事件を知っていますか?──禁忌の言葉で記憶された殺人鬼
アルバート・フィッシュ(1870–1936)は、20世紀前半のアメリカ犯罪史で最悪級と語られる人物だ。児童を狙った誘拐・殺害事件で裁かれ、「満月の狂人(Moon Maniac)」「グレイマン(Gray Man)」「ブルックリンの吸血鬼(Brooklyn Vampire)」などの異名でも知られる。
この事件が今も強烈に記憶される理由は、残虐さの度合いだけではない。本人の供述や書簡にカニバリズム(人肉食)という禁忌の語が現れ、事件の印象そのものを決定づけた点にある。
事件の内容──少女の失踪と、6年後に届いた手紙
事件の中心は、1928年に行方不明になった10歳の少女グレース・バッドだ。フィッシュは偽名を用いて家族に近づき、外出の口実を作って少女を連れ出したとされる。失踪は長く未解決のまま推移した。
1934年、遺族のもとに届いた手書きの告白文が捜査を一気に前進させる。いわゆる「バッド家宛ての手紙」には犯行の告白に加え、本人の言葉としてカニバリズムに触れる趣旨が含まれていたとされる。文面や投函経路の手がかりから差出人が特定され、同年12月に逮捕へ至った。
異様さの背景──家庭崩壊と自己加害の固定化
フィッシュの私生活には、早い段階から深刻な歪みがあった。結婚生活の破綻後、彼は宗教的言辞を伴う自己加害行為にのめり込み、痛みと快感を結びつける思考を強めていったと記録されている。
また、当時の証言や資料には、成人向け媒体の投稿欄を通じて被虐的行為を求める手紙を送っていたこと、各地を放浪するなかで自らの身体を傷つける行為を反復していたことが残る。精神科医フレデリック・ワーサムは、彼の内面にサディズムとマゾヒズムが強く併存していたと指摘した。
これらは犯罪そのものの理由を単純化するものではないが、後年の供述や行動を理解するための背景として語られている。
放浪と供述──誇張を含む語りと、禁忌の主張
放浪期のフィッシュは、複数州にわたる犯行を自認し、被害者像についてもさまざまな主張を残した。とりわけ彼の語りで注目されるのが、殺害後に遺体を食べたとするカニバリズムの言及である。
ただし、被害者数や詳細については裏取りが難しい点が多く、本人の誇張や虚言が混在している可能性が指摘されてきた。重要なのは、これらの主張が事実の全体像を確定させるというより、事件の印象を強烈に固定してきたという点だ。
犯人の末路──「正気か否か」を争い、電気椅子へ
裁判は1935年、ニューヨーク州ホワイトプレインズで行われ、争点の一つは責任能力だった。弁護側は精神異常を主張したが、評決は有罪。
1936年1月16日、フィッシュはシンシン刑務所で電気椅子による死刑が執行され、生涯を終える。処刑にまつわる逸話は後年の脚色も多いが、裁判と処刑という結末自体は確定した事実として残っている。

誘拐事件に“カニバリズム”が重なった瞬間
誘拐と殺害だけでも、この事件は十分に重い。だが、そこにカニバリズム(人肉食)という言葉が加わった瞬間、事件の異様さは別の段階に跳ね上がる。人は暴力そのものよりも、「人を食べる」という禁忌に触れたとき、理屈では処理できない嫌悪と恐怖を抱くからだ。
この事件が今も強烈に記憶されるのは、残虐さの量だけが理由ではない。誘拐事件という現実の枠組みに、禁忌の単語が刺さり込んだこと――その決定的な違和感こそが、アルバート・フィッシュ事件を「ただの誘拐事件」で終わらせない。














